一生を使っても消費しきれない世界

   

最近、意識的に色んなコンテンツに触れるようにしている。

アウトプットには痛みが伴うのだが、インプットは惰性でも出来るのだ。(って、それじゃだめじゃん)

それで思ったことなんだけど。世界はコンテンツに溢れている、ということ。

YouTubeが立ち上がり、動画コンテンツをネットで視聴するというのが一般化した。

ついにhuluはAppleTVに対応する。一つのコンテンツは、常にテレビの前だけで見る必要はなくなり、移動中はスマートフォンで、移動先ではパソコンから同じコンテンツの見た場所から再生できる世界がやってきた。

文字コンテンツはインターネットを通して無限にコピーされる。デジタルはコンテンツの流通を無限大にした。

これは幸せなのだろうか。きっと人によって違うのだろう。

一つだけ言えるのは、ちゃんと探せば、一生退屈しないだけのコンテンツは既にネット上に存在しているだろいうと言う事。

今あるものだけで、一生楽しむことが出来るだけのデータ量が存在している、そんな可能性を感じる。

消費するだけの人生

何かを消費し続けるだけの人生。それもまた気楽でいいのかもしれない。人によると思うけど。

きっと、消費し続けるだけの人で満足する人しない人が発生するには、自分が十分なコンテンツを探すことが出来るかどうかに依存する。

自分が欲しい物を、自分が欲しいタイミングで。それだけで満足する人は結構いると思う。そして、そこはビジネスチャンスなのだろう。

もう生産しなくても、楽しく過ごせるだけの資産を持ったんじゃないだろうか。過去のコンテンツだって、新鮮にうつるものは沢山あるはずだと、huluで過去のコンテンツを見ていて思う。全然悪くない。確かに、3Dで映画は見れないが、そこまで本当に必要かどうかはわからない。コンテンツが色褪せるというのは相対的なものだ。

消費から行動へ

アンテナを張り続け、コンテンツを消費し続ける。それもきっと長くは続かないんじゃないだろうか。

日々、ゴロゴロしていては、いくらコンテンツが新鮮でも、やっぱり飽きるんじゃないだろうか。

消費と生産はバランスがとれていたほうが良さそうな気がしている。(バランスは人に寄ると思う)

少しでも自分でやってみるのだ。

自分が好きなコンテンツにインスパイアされて、何かを実際にしてみるのだ。

世の中がコンテンツに満たされた挙句、何が起こるのか僕にはわからない。

たとえば、活字離れというのは、実際に活字から離れたのではなく、世の中に文字コンテンツがあふれた結果、あえて本を選ばなくても満足してしまうことなんじゃないかという話を見た。

きっと、コンテンツがあふれると、映画離れが起きる、テレビ離れが起きる、どんどん皆がいろんな事から離れていく。そんな事に成りうるのかもしれない。僕らはそうなりたかったんだったっけ。

ソーシャルメディアはそれを加速するだろう。皆がいいね!をしているのは、インターネットを通して手に入りやすいコンテンツだ。

声の大きなメディアに掲載された何かを、今日もみんながいいね!をして回っている。

共感というのは、非常に強い力だと思う。それによって満足する人もいる。そしてそういう人達が、xxx疲れとか言っちゃうのだろう。

依存しすぎだ。

 

意識して沢山のコンテンツに触れようとしてきた結果

僕に起こったことは、やっぱ何かやりたいなあという事だ。

最近感動したのはLes Twins。ダンスって、全くやらないからわからなかったけど、かっこいいね。

自分の身体の使い方を知っている、そんな人間に、僕はなりたいなと思ったので、筋トレ頑張ります。思うように自分の身体が動くってのは、生命として正しい気がしたから。

そして、誰かに消費されながら生きていくというのも、いいよねと、やっぱり思うんだよね。それって、多くの人が出来ることじゃないだろうし。

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