なにがなんだかわからない、と言う事
ソーシャルネットワークとかをイメージしてもらうと分かりやすい気がする。
Facebookの面白さがわからない。
Twitterの面白さがわからない。
かつてはmixiの面白さがわからない。
耳タコ状態です。まあよくある。
新しい事を知るというのは、やっぱりある程度の年齢を超えていくと、面倒に思う人の割合が増えていく。自分の世界になかったものを、わからないで片付けてしまうのは楽だ。
一方で、そんな概念的な事を話していてもしょうがない事がある。
じゃあ、Facebookの面白さがわからないという人が何を考えているかを紐解いてみると、そもそも面白さがわからない、という以前に、何もわかってないというパターンがあるなという事に気付く。
WebサービスのIDは登録してあるけど、実際に使ってない。なんだかよくわからないから放置してある。そういうパターンだ。
なんだってそうだと思うが、やってみないと面白さはわからない。
ネットだけじゃなく、リアルなものだって同じだろう。なんでマラソンなんて走るのか気が知れないというのは、走ったことのない人がいう言葉だと思う。やらずして、その魅力に気付くことが出来るものというのは、結局浅いものなんじゃないだろうか。人間の想像力じゃ保管できないものは、その達成感だったり、満足感だったり、自分が充足される何かだろう。
何もわかっていないという状態
これというのは、人が疑問に思うことについても、理解が出来ないし、何か質問ありますか?と問われた時に、いやいや、そもそも全部わからないから、質問も出来ないよ。という状態の事を指す。
ここから次のステップへ誘導するにはどうしたら良いだろうか。
頭ごなしに、あーしろこーしろ、と言うのが良いだろうか。まあある程度は力になるかもしれないよね。
超えていくべき壁を、なるべく下げてあげて、step by stepで、次の一歩を踏み出す。というのももちろん有りだと思う。
ただ、現代社会では、そのstep by stepがひとつのルートだけに限られてないのが特徴的なんじゃないだろうか。
色んなアプローチ方法があるし、人はそれを選んで一歩を踏み出せば良いのだ。
小さくしか移動出来ない人には、そういう人のアプローチがあるし、一歩一歩大股であるく人にはそういう人のアプローチがある。
導く人が考えるべきは、アプローチ方法には種類があり、どれを選ぶかはあなた次第だ、という選択肢を与える事なのかななんて最近考える。
100人が100パターンで、問題を超えていくだけの道を示すとなると、大変だと思うが、こういう時代だからこそ、できる限りの選択肢を与えられるような視野を持ちたいし、出来ることならばある程度の示唆で、示唆を与えられた人たちが合計で100パターンになる、みたいな導き方へ持っていけるといいなと、そんな事を思うのでした。