生き方には多様性があるよという事に気づき始めた日本
別に『やりたいこと』なんて見つけなくてもいいんじゃないか
読んだ。
みんなが夢見ていると(おもわれる)それは、誰もが手にするには重たくて、火傷しがちな道だよねっていう話だよなあと満員電車に揺られて思っていた。
日本は、ここ数十年、誰もが斜め上を見ながら生活をしてきて、それで特に困ることは無かった。自分の親の世代なんて、まあそうだよなと思う。ただ、今はそれは通用しない。右肩上がりの世界から、これ以降ずっと衰退していく国を生きていくことになるということは痛いほど分かっている。
少子高齢化をどうするか、自分の親の介護どうするのか。もう「今そこにある危機」から目を遠ざけて生きている。
やりたいことを見つけるというのは、その目を遠ざけたいものから更に自分を遠ざけるきっかけにもなるんじゃないだろうか。
社会的にそういう風潮になるというのは、社会的に何かに蓋をしたいだけなんじゃないだろうか。
それを成し遂げる道に至ることが出来れば、何かが見える。そんな何かにすがり続けているような気もする。それが、今の時代でいうところの「やりたいこと」なのかななんて思う。
やりたいことは何かの先にあるものだと思う
0からいきなりやりたい!というのは、まあただやりたくなっちゃったことであって、そんなに継続されないよねと僕個人としては思うのです。
色々な経験をしてきても、なぜかこれだけはやってるよねというもの。そういうものが、やりたいことなんじゃないかなあ。
ものすごく地味な事だったとしても、10年来続いていればやっぱりそれはやりたいことなんだろうなと僕は思うし、お前なんかあるだろ?って聞きたくなってしまうんですよね。
しかも、そのやりたいことは、別にビジネスと関係ないですから。だからやっぱりこのブログで言われているところの「やりたいことは決定しなきゃならない」というのは僕も「ないわー」と思うのです。
ずーっと心のなかにあるものって何でしょうね?恐らく、それなんだと思いますよ。やりたいことっていうのは。僕に有るのは2つくらいかなあ。
生き方には多様性があってしかるべきである
今は物凄い過渡期。ソーシャルメディアを通して、一昔前だったら話なんて聞いてもらえない人が声を上げ、お互いに叩き合い、それでも強靭な精神力で道を開いていく。そんな修羅の道を行く者もいる。
そして、それらの騒ぎはだんだんとネットウォッチャーの領域から、一般人へと侵食を始めるのだ。
そう、社会的に、気付き始めている。生きるという方法の多様性を受容しようというような流れが、近い将来にきっとくる。
僕の息子は今3歳だが、彼が二十歳になる頃に、自分と同じ道を歩んでいるとは全く思えないし、そうなると完全に「ニュータイプ」な訳だ。どこまで口出しできるだろうか。そんな事を考えながら、息子にすら「すっげーな親父!」といわれるような事をやり続けたいなと思っている。
どんな風に生きようが構わないとは思う。社会として、みんなが見ているレールの上を走っていなきゃドロップアウトしてるとか、そういうレッテル付けがなくなるだけで、日本人の幸福度はかなり上がるんじゃないかな。
隣にいるあいつと喧嘩するのが楽しいわけないだろう。色んな生き方をして、色んな幸せの尺度を社会が許容している。そんな風にできないものかねぇと考える地震の多い夜でしたとさ。