時代に取り残されるという事

   

激動の時代だ。

しょうがないですよ。情報の流通量は人類が地球に生まれて以来指数関数的に伸びている。それによって起こされる事は、自らの状況の均等化だ。自分の上下がわかる。というより、世界中の人の平均的な生活感は、集合知としてインターネットに集まってしまう。これが引き起こすことはなんだろうか。

どこでもドアはインターネットだったのだろう

物理的に人体を別の場所に移すのは難しい。では、自分が得られる情報量という観点といえばどうだろうか。今いる位置で別の場所の情報を得られる量というのはどれほど変わっただろう。まあそれも指数関数的に変わっている。条件を整えさえすれば、物理的な距離はあまり関係ないという時代がやってきているのだ。(最近GoogleHangouts関係の記事をよく書いているのも、この辺りに関心があるからだったいりする)

ちょうどちきりん女史がいろんな事を書いているので参考に

日本のものづくりは世界一

今でもそれを信じている人はどの程度いるのだろう。それなりに譲れないと思っている人はいると思う。(僕の中ではVAIOをクソ判定した段階でかなり信頼が揺らいだのだが)

こんなのみた→1週間で3台のテレビを試した結果Samsungが最高だった話

今思うことは何か。何かに固執すると時代に取り残されるのだということだ。

「うちは技術力があるんだけど、仕事が無いんだよ!」という声を、よく聞く。これって技術力に意味があるんでしょうか?

もはや時代的に意味のない産物になっているんですよね。

難しいことをやっているから偉いという時代は終わりました。その人しか出来ないから大事なんだという時代でもありません。ストラディバリウスみたいに、あの人が作ったからみんながこぞって使うんだというような、個人の名前がついたシロモノを、人類はどれだけ生み出せたのでしょうか?

かなり厳しいんですよね。

昨日も書きましたけど、本当に後世に残したいものがあるのなら、それをどうやって達成するのかについては、ちゃんと考えてほしいです。不安なら教えてください。話を聞きに行きます。

うちには技術はあるんだよ。という話については、時代に取り残されてしまった産物だよなぁという気がして切なくなるのです。

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