資本主義は生き方の多様性を受容出来るのか #nhk
地球イチバン ―新―「世界最北の狩人 ポーラーイヌイット~グリーンランド~」を見た。
北極で生活するイヌイットの話だった。
北極点というのは、植物が育たない。寒いからな。そんな地域では、動物の肉を喰って生きている。そういう素朴な生活をしている種族の話だった。
生きる上で必要なのは、動物のレバーだそうな。レバーはビタミンが豊富らしい。温かいところで生きていればあまり関係ないのだろうが、彼らにとってはビタミン源を確保するという事は死活問題だ。
そんな北限の世界にも、時代の変革点がやってきている。温暖化によって氷山が溶け、金鉱が見つかったりしているらしく、グリーンランドの女首相はそれを輸出して外貨を稼ごうとしているらしい。まぁ当然だよね。
そういった世界観の中で子供たちはどう思うかというと、一人のハンターになりたい子供を除いて、街を出たいと言っている。今まであったようなライフスタイルを次世代は否定している。何故か?退屈だからだ。
モノがあるところへ。楽しいことがあるところへ行きたい。子供たちがそう思うのは自然なことだろう。インターネットで世界中がつながってしまった今、生活レベルの違いは目に見えてしまう。一食数円で賄っている地域の人が、世界を見渡すことが出来てしまう。
今の地球において、文明の発達速度は平等ではない。まぁそれ自体が過渡期と言われてしまえばそうなのかもしれないが、現状はそうなのだ。これを、後進国側から見たらどう思うだろうか。手の届かない世界がそこにあるのに見えてしまうのだ。それはどうだろう。
と、ここまで書いてみて思ったが、逆にそういう人たちは世界間の壁を我々日本人より良く知っているのかもなと思ったりした。
資本主義は生き方の多様性を受容出来るのか
墨田区ネタでは、日本の製造業者の話しについて色々と書いているが、生き方の多様性を受容できるのかという事が最近気になっている。結論からいうと、無理だということになるのだが。
先ほどの番組に出てきたポーラーイヌイットも、銃、船、ストーブや家具など、何かと交換して手に入れている人たちである事は明白だった。金が無ければ生活が立ち行かないのだ。
彼らの素朴な生活は、ガソリン等の生活物資が滞った時に成り立っていくのだろうか。
燃料一つとっても、世界的に価格が上がれば、手に入れることが難しくなる。生活の糧を、多くの貨幣価値に変換出来ない地域にいる人は、ものすごく不利な状況だと言えるだろう。
人間が生きていく上でのクリティカルな部分を資本主義社会経済に握られてしまうと、結局は自由に生きることは出来ないのだろう。ポーラーイヌイットがそこに依存しているかどうかはわからなかったが。(もしかすると、そんなもの無くても、獲物を仕留める効率が下がるだけで、やっていけるのかもしれない)
グローバル経済の中に組み込まれるという事は、独立して生きていくことが出来なくなるという事だろう。
素朴な生き方というものは、そういったものとは一線を画し、自分の近場にある環境で生きていく事を指すのだと思う。
恐らく資本主義は、人間の生き方に多様性を許容できない。
しかし、資本主義に組み込まれない事を選び、自らの生き方を決するという事は、狭い地域ながらできている可能性はある。
どちらが幸せなのかというと分からないが、多感な時期の若者はものに溢れる社会を目指すという事がわかった。(いや、わかってはいたが、実際そうだったのだ)
豊かな社会にいる人達は生き方を選択できる。しかし、そういう人たちが、原始的な生活を目指すだろうか。それは無いだろう。
多様性があることが豊かな事だとはいうものの、文明レベル的なものがあからさまに違いを生み出してしまうと、そういう社会は残っていかないだろうなと感じる。
これは決して国家レベルの話しではない。貴方の身近にあるそのコミュニティも、同じ危機に瀕しているかもしれないよ