それでも僕は選択肢を提示し続けたい
先日、友人と話をしていた中で出てきた話題。
顕在化していない何かについてそれを提示するのは、時として残酷であるというもの。
簡単に言うと、知らないほうが幸せであるという事もあろうと言うことだ。
僕はそうは思わないのだけれど、その時はうまく言葉に出来なかったのでちょっと考えてみた。
閉じた世界でずっと生きていける保証はない
僕がこういうことを考える根底には、そういう考え方がある。
世界はダイナミックに動いており、流動的だ。ましてや日本人の平均寿命は80を超え、生きている間に何度か時代の流れが変わる事を体験するのは自然なことだろう。何しろ今から80年前は1930年。フランクリン・ルーズベルトがアメリカの大統領となりニューディール政策を始動した年だ。そんなの教科書の中の事であるが、生きている間にそれだけの事が変わっていく。
小さな世界の中だけで生きていける保証は無い。井の中の蛙のままでは、いつ井戸が干からびるかわからないが現代なのだ。今年町工場関連の仕事をして、その思いは強くなった。
世界を知ることが残酷なのではなく、選択肢を知らないことが残酷な結果を呼ぶ
ネットで有名なコピペのこんなのがある。
メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」
アメリカ人旅行者が最後に出した結論はどうかと思うが、果たしてメキシコ人側の言い分もどうだろうか。
将来的に漁をずっと続けられる保証は無い。それ以外のことをやって来なかった人は、時代の流れに取り残されるだろう。つぶしがきかない。
僕が思うに、色々な選択肢を知っている中で、敢えてその世界を選んでいるということであれば良いと思う。自分を律する事は自分で出来るはずだ。
逆に、色々な選択肢を知らないままその世界に居続けるということは、危険と隣り合わせなのではないだろうか。
人生80年のこの時代に、小さな世界の中にこもり、選択肢に対して試行錯誤をしてこなかったというのは、致命傷になり得るだろう。
だからこそ僕は選択肢を提示し続けたいと考えるのだと思う。色んなことが選べるのが人生なのだと感じてもらえるように。