視点の置き方で不安や心配事なんてなんとでもなる
これは有名な絵だと思う。横を向いた老婆にも後ろから見た若い女性にも見える。ものの見方さえ分かってしまえば、この2つ両方の視点でこの絵を見ることが出来る。
そしてそれはきっと多くのことに当てはまるだろう。世の中の出来事というのは、見方によっては幾つもの捉え方が出来るのだ。
分からないことは不安だろうか
例えば自分が新しい世界に飛び出す時。その世界に自分が馴染めるかどうかが不安になるということがある。
例えば何か新しい仕事を始める時。その仕事を自分がやり通せるかどうかが不安にあるということがある。
先輩や上司と自分を比較して、自分には何もないことや、模索をしてる最中だということを持って不安だと感じるということがある。
これに対処するにあたり、一つ知っておいてほしいことがある。
僕らは知らないことをやっている
先日書いたブログにリバネスのビジョナリーカフェの事を書いた。さっきそこで話した事を一つ紹介したい。
リバネスでは創業当時2001年から子供たちに向けて実験教室という形でサイエンスの面白さを伝える教室を展開してきた。売りは現役の研究者が教育現場に出向いて、サイエンスの面白さを伝えるというものだ。これらの事業を通して子供たちから学んだことがある。
大人も知らないことってあるんだ
リバネスの実験教室では必ず、研究者が自分の研究について話をする。当然研究の話なので、世の中的に解明されていないことを追求する話だ。これを子供たちは目を見開いて聞く。その中の感想の一つに「大人でも知らないことがある」というものがあってハッとした。
義務教育の間で教わるのは答えのある問題だ。さっきビジョナリーカフェに参加した学生と話をしている中でこう思うと言っていたのは「ラボに配属される前の学生までそれは続く」と。
答えのない問いというものが存在し、それにチャレンジする姿勢というものは実は日本の社会の中でははるか大人になってから出ないと遭遇しない(もしくは遭遇する確率が低い)のかもしれない。
これは大人になっても続く。色々と模索中なのでと自分を必要以上に何もないような表現をする必要なんてない。なぜなら大人も知らないことがあるのだ。
不安や心配事につなげてしまうのはなぜだろう
それはいつの間にか「自分だけが」不安や心配だと思っていると思いこんでしまうからだろう。話をしてみれば隣りにいる誰かや先輩や目上の人だって何かしら自分が分かっていないことをやっている事がわかるだろうし、それに対して安心感を得ているとは言い難いという事は往々にしてあるだろうと思う。
誰だってそうなのだから、誰しもが感じることについて不安に思うことに何かしらの意味があるわけでは無いし、そういったハードルを越えても越えなくても色んな事が経験になって自分の話の引き出しが増えていくだけだ。
多くの経験を話すことが出来る人が立派に見えがちかもしれないが、立派かどうかは別だ。そんなことで関心していたらいくらでも騙されてしまう。
誰しも同じようなことを経験しているし、それを超えたから偉いかどうかというと、そんなことは決して無い。
不安に思うのは自分次第なのだ。
弊社リバネスの役員陣は人見知りが多いし、沢山の人の中にいるのが得意という訳でもない。
それでも色々な人とコミュニケーションを取りたいのは、そうすることによって新たな視点や技術といったものに触れることが出来るし、それを糧にして未来を作ることが出来ると思っているからだろうと思う。
生きている間にできるだけ遠くの景色を見たい。そんなことを考えていると、不安に思っている暇は意外となかったりする。今のところ人類は有限の時間の壁に縛られているのだから。